明治23年に北方警備と北海道開拓を目的に、現在の北海道厚岸町(あっけしちょう)太田地区(当時は厚岸郡太田村)に入植した屯田兵440世帯(山形、新潟、石川、福井、山口、和歌山など9県27藩の旧士族/屯田兵根室第4大隊第三中隊・第四中隊)の兵屋。前年に標茶集治監の囚人たちが建築したのが太田屯田兵屋で、そのうち1棟が現存。
開拓時代の屯田兵の住まいが現存
現存する兵屋(兵屋番号119番)は、17.5坪の木造平屋建てで、土間、6畳・4畳半の2間、さらに居間、台所、便所などからなっていました。
居間には炉が切られ、煙突から排気するシステム。
建物は修築復元されてはいるものの、当初に建てられた同じ場所にある貴重なもの。
北海道の有形文化財に指定されています。
太田地区では今も屯田兵の末裔たちが暮らしています。
ちなみに太田村という村名は屯田用地の選定に功績のあった太田紋助(おおたもんすけ)にちなんで名づけられたもの。
太田紋助は、1846(弘化3)年、大畑出身の父と厚岸奔波のアイヌの母との間に生誕。
明治2年に厚岸支配の佐賀藩開墾掛を務め、明治23年には屯田兵村設置計画に協力しています。
明治時代のアイヌ民族指導者で、その功績ゆえに、太田という名が付けられています。
「屯田兵村と兵屋」として北海道遺産にも登録されています。
屯田兵
明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士とその部隊が屯田兵。つまりは畑を耕し、自給自足しながら北方の警備を担っていたわけです。
士族を北方警備にという西郷隆盛の提案がきっかけで、開拓使次官の黒田清隆が建議し、明治8年、札幌郊外の琴似兵村への入地で、屯田が開始されました。
士族を北方警備にという西郷隆盛の提案がきっかけで、開拓使次官の黒田清隆が建議し、明治8年、札幌郊外の琴似兵村への入地で、屯田が開始されました。
明治22年から増設が進み、太田村にも士族440戸が屯田兵として入地しています。
明治37年、日露戦争に従軍し、太田屯田兵応召者184名のうち、戦死者38名を数えています。
この年、徴兵制による兵力の確保の見通しが立ったため、屯田兵の制度も廃止されています。
太田屯田兵屋 | |
名称 | 太田屯田兵屋/おおたとんでんへいおく |
所在地 | 北海道厚岸郡厚岸町太田2の通り6-3 |
関連HP | 厚岸町公式ホームページ |
ドライブで | たんちょう釧路空港から約63km。根室中標津空港から約75km |
駐車場 | 20台/無料 |
問い合わせ | 厚岸観光協会 TEL:0153-52-3131 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |