登別温泉を代表する宿といえば「登別グランドホテル」と「第一滝本館」。この2軒は登別温泉の開湯から発展に大きく関わった宿なのです。「登別グランドホテル」は、天皇の宿所となり「北の迎賓館」とも称された温泉ホテル。ドーム型ローマ風大浴場は、登別温泉発展の歴史を今に伝えています。
登別開発の恩人、滝本金蔵、栗林五朔

登別グランドホテルの旧本館(昭和13年創業)
登別温泉では幕末に湯治宿を建てた滝本金蔵(たきもときんぞう=江戸の大工職人で、幕府の派遣で蝦夷地に渡る)が「温泉の祖」と称されています。
皮膚病に悩む妻・佐多のため、皮膚病に効く温泉を探し当て、安政5年(1858年)、登別に湯宿を建てたのです。
その湯宿をルーツとするのが、温泉街の一等地に建つ「第一滝本館」です。
「温泉の祖」滝本金蔵は、湯宿に至る馬車道を切り開くなど(湯治客は6人乗りの馬車で2時間掛けて来湯)、今日、日本有数の温泉場へとなった発展のベースをつくりました。
滝本金蔵の死後、跡を継いだ長男の2代目の金蔵(滝本金之助)も明治35年、41歳で早世。
大正2年、滝本金蔵の遺志を継いだのが、「北の海運王」と称された栗林五朔(くりばやしごさく)です。
栗林五朔は、越後国蒲原郡西大崎村(現・新潟県三条市)の出身で、明治25年、発展を見込んで室蘭に移住、海運業を営みます。
同時に、牧場経営、さらには経営の傾いた登別の温泉宿2軒(「第一滝本館」、「第二滝本館」)、温泉の権利を買収し、旅館業にも参入します(第一滝本館は、昭和2年、南外吉に譲渡)。
大正4年、登別温泉軌道を設立、これまでの馬車道に馬車鉄道(軌間762mm/所要1時間20分)を敷設しています。
馬車鉄道は大正7年5月に蒸気機関車に代わり、所要も1時間に短縮、大正14年には1067mmへ改軌、電化されて(路面電車です)、所要時間は35分にまで大幅に短縮されたのです。
昭和13年、登別グランドホテル創業

こうして登別温泉の近代化に尽力した栗林五朔ですが、昭和2年5月4日に60歳で死没。
跡を継いだのが海運業を財を成した栗林徳一で、その財力を背景に昭和7年には9ヶ月間も外遊、とくにヨーロッパの温泉保養地などを視察したのです。
昭和8年、登別温泉への路面電車は廃止となり、バス輸送に転換。
登別温泉にも多くの湯治客が訪れるようになりつつありました。
そこで栗林徳一が昭和13年に築いたのが、「登別グランドホテル」(和室56・洋室14)で、登別発展の集大成ともいえる施設でした。
ヨーロッパ視察の成果を活かしたのが、温泉プールを併設した大浴場。
現在のリゾートホテル顔負けの施設を、すでに昭和13年に生み出していたのです。
大浴場もドーム型ローマ風という異色のもの、当時、温泉地では木造の湯小屋が一般的だったことから、入浴した人はそのハイカラさに驚いたはずです。
ローマ風呂は、昭和5年に江の島(神奈川県)の岩本楼に、そして丹那トンネル開通の昭和9年、熱海(静岡県)の大野屋にも誕生していますが、栗林徳一がそれらを知っていた、あるいは参考にしたのかは定かでありません。
昭和13年といえば日本がイタリア(ファシスト党が政権掌握)と友好を深めていた時代なので、そうした世相を反映したとも推測できます。
戦後の昭和29年、昭和天皇と皇后の登別行幸の際には、「登別グランドホテル」が宿所となり、「登別の迎賓館」といわれるまでになったのです。
そんな旧「登別グランドホテル」は、昭和56年に解体され、昭和57年、現在の建物に代わっていますが、栗林徳一の意図を重んじて、新本館にも旧本館の「ローマ風円形浴槽」と「女性浴場」をそのまま温存しているのです。
つまりは、「ローマ風円形浴槽」と「女性浴場」こそが、登別温泉のハートともいえる存在ということに。
庭園露天風呂の新設、客室内装リニューアルなど、時代とニーズに合わせて年々、改修は進んでいますが、登別温泉のハートともいえるローマ風呂は、昭和13年当時の面影を今に伝えているのです。


| 登別温泉の歴史を今に伝える「登別グランドホテル」のローマ風呂 | |
| 名称 | 登別グランドホテル/のぼりべつぐらんどほてる |
| 所在地 | 北海道登別市登別温泉町154 |
| 関連HP | 登別グランドホテル公式ホームページ |
| 電車・バスで | JR登別駅から道南バスで登別温泉下車、徒歩1分 |
| ドライブで | 道央自動車道登別東ICから約5km |
| 駐車場 | 100台/無料 |
| 問い合わせ | 登別グランドホテル TEL:0143-84-2101/FAX:0143-84-2543 |
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