【十勝風景街道】十勝の開拓風景を体感! 晩成社跡

晩成社跡

北海道広尾郡大樹町(たいきちょう)、生花苗沼(おいかまないとう)の北側、生花苗川沿いの原野にあるのが、晩成社跡。晩成社を結社した依田勉三(よだべんぞう)が晩成社当縁牧場を開いた地で、依田勉三住居も復元され、開拓時代の雰囲気を体感することができます。

原野の中に依田勉三住居が復元されている!

依田勉三は、明治16年4月、開拓への参加者を集め、13戸27人が横浜港から函館港経由で、十勝川河口の大津へ(大津には食料とする米庫を設置)。
函館から1ヶ月を費やしてようやく下帯広村にたどりつき、開拓を開始します。
豆、小麦、ビートの栽培に着手しますが、鹿猟の野火、イナゴの大群、天候の不順などもあって、農作業は困難を極めました。

当時の下帯広村には和人は1戸、アイヌが10戸という有り様で、現在の16万都市の風景とは隔絶された未開の大地が広がっていました。

依田勉三は直面した危機を乗り越えるため、当縁郡当縁村生花苗(現・大樹町晩成)に拠点を移し、酪農へと転じます。
明治18年、農耕馬を購入し、羊と豚を飼育することでハム製造を目指し、あわせて馬鈴薯の栽培にも挑戦しますが、開拓農家は3戸までに激減しています。
15年で1万町歩の開拓を目標にした晩成社ですが、入植10年でわずかに30町歩という程度でした。

その後もバター製造、缶詰製造など様々な挑戦を行ないますが、成功とはいえず、大正14年に依田勉三が没したこともあり、昭和7年晩成社は解散しています。

晩成社の名は、大器晩成からとったもの。
現在は大樹町に晩成社があるので、「大樹晩生」ということになりますが、依田勉三が手掛けた多くの事業は、今では十勝の基幹産業になっているのです。

北海道道881号(ホロカヤントー線)を走り、生花苗川近くで道から少し入ったところにあるのが晩成社跡。
一帯は、今も生花苗沼へと続く原野、農地が広がり、開拓時代の雰囲気を体感、依田勉三住居も復元され、依田勉三のフロンティアスピリッツを感じ取ることができます。

撮影/大石正英

晩成社の十勝開拓と依田勉三

嘉永6年(1853年)、伊豆国那賀郡大沢村(現・静岡県松崎町)に生まれた依田勉三は、慶応義塾に入り福沢諭吉の教えを受けますが、北海道開拓史が招いた米国人:ケプロン報告書を見て北海道開拓に目覚め、明治14年、単身、北海道の調査を開始。

明治15年、故郷の静岡県で晩成社を設立、明治政府から未開地一万町歩を無償で払い下げを受け、開墾しようという計画でした。
横浜港から北海道へと渡り、札幌の北海道庁で開拓の許可を得ると、十勝国河西郡下帯広村(現・帯広市)を開拓地と定めます。

明治16年、開拓当初の晩成社のメンバー
【十勝風景街道】十勝の開拓風景を体感! 晩成社跡
名称 晩成社跡/ばんせいしゃあと
所在地 北海道広尾郡大樹町生花149-1
関連HP 大樹町公式ホームページ
ドライブで とかち帯広空港から約42km
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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