江戸幕府が倒れ、大政奉還(たいせいほうかん)が行なわれたのが、慶応3年(1867年)。これに不満をもった旧幕臣の榎本武揚(えのもとたけあき)らが占拠し、最後の砦となったのが、箱館(北海道函館市)の五稜郭(ごりょうかく)です。異国船の襲来に備えて築かれた西洋式の城郭で、国の特別史跡、日本100名城、北海道遺産に選定。
開港時に箱館奉行所の内陸移転で建設された西洋式城郭
もともと五稜郭は、日米和親条約締結による箱館開港に伴い、箱館奉行所の移転先として、安政4年(1857年)に着工し、慶応2年(1866年)に完成した西洋式の城郭。
安政2年(1855年)7月、フランス軍艦・コンスタンティーヌ号が箱館に入港した際、箱館奉行所の武田斐三郎が大砲設計図や稜堡の絵図面を模写し、この絵図面を基に五稜郭と弁天台場の設計を行なっています。
築城中は亀田役所土塁(亀田御役所土塁)と呼ばれたように、戦闘を意識した城というより、北方警護の流れの中で築かれた行政の中心地という感じです。
箱館奉行所が外国船の砲艦からの攻撃を受けてはまずいと、内陸に築かれたのですが、本来のヨーロッパの城郭に比べれば、幕府の予算不足で、防備にははなはだ疑問が残る城となっています。
同時に、弁天岬に弁天台場が築かれていますが、これも外国船の襲来に備えて。
大政奉還後に五稜郭は、箱館奉行・杉浦誠から箱館府知事・清水谷公考に引き渡され、箱館府の政庁となりました。
慶応4年(1868年)10月21日、榎本武揚率いる旧幕府軍が鷲ノ木(現・森町)に上陸。
10月26日に旧幕府軍は無人となった五稜郭を占領します。
しかし旧幕府軍・箱館政権の陸軍奉行となった大鳥圭介(おおとりけいすけ)は、「築造未だ全備せず、有事の時は防御の用に供し難き」と五稜郭の防御力の弱さを嘆き、「胸壁上には二十四斤砲備えたれども、射的の用には供し難し」と攻撃力の脆弱さにあきれています。
異国船防御を目的に築かれた五稜郭ですが、旧幕府軍が陣取ったことから、皮肉にも日本人同士の戦いの場となり、箱館湾に停泊した新政府軍の砲艦「甲鉄」からドーンと大砲が撃ち込まれています。
箱館奉行所が復元、公開されています
榎本武揚率いる旧幕府軍は箱館戦争に敗れ、五稜郭にあった建物も明治5年に取り壊されています。
大正3年に五稜郭公園となり、数千本のソメイヨシノが植栽されました(その一部が今も見事な大木として春に見事に咲いています)。
昭和34年に高さ60mの五稜郭タワーが完成。
平成18年に高さ107mの2代目・五稜郭タワーが完成し、平成22年7月29日には綿密な調査を元に箱館奉行所が復元されています。
なお、築造当時から唯一現存する建物として兵糧庫があるのでお見逃しなく。
「五稜郭と箱館戦争の遺構」は国の特別史跡で、かつ北海道遺産にも登録。
五稜郭公園は、「日本の歴史公園100選」にも選定されています。
龍岡藩(田野口藩)の藩庁である龍岡城(長野県佐久市)も実は五稜郭で、元治元年(1864年)3月着工、慶応3年(1867年)4月完成。
というわけで函館の五稜郭のほうが早くに計画、着工されています。
では、五稜郭が日本で最初の西洋式城郭かといえば、
四稜郭(しりょうかく)はもうひとつ、函館市の陣川にあり、箱館戦争の際に蝦夷共和国(箱館政権)が、明治2年に築いた堡塁。
五稜郭の支城として築かれたものです。
同時期に築かれた峠下台場(現・七飯町)も七稜形です。
幕府側では松前藩が幕府の命、安政2年(1855年)に築いた四稜郭(松前藩戸切地陣屋/現・北海道北斗市)。
五稜郭の着工よりも2年ほど早く、幕末に西洋式城郭が集中的に築かれた蝦夷地でも、この松前藩戸切地陣屋は、最初に築かれたといえるものです。
五稜郭 | |
名称 | 五稜郭/ごりょうかく |
所在地 | 北海道函館市五稜郭町44 |
関連HP | 函館市公式観光情報サイト |
電車・バスで | JR函館駅から市電湯の川行きで20分、五稜郭公園前下車、徒歩10分 |
ドライブで | 函館空港から約7.6km |
駐車場 | 市営五稜郭観光駐車場(97台/有料) |
問い合わせ | 五稜郭公園管理事務所 TEL:0138-31-5505 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
取材協力/五稜郭タワー、函館市観光部