サラキ岬(咸臨丸終焉の地)

サラキ岬(咸臨丸終焉の地)

北海道上磯郡木古内町、国道228号沿い、函館山、矢越岬、津軽海峡越しに対岸の青森県下北半島を眺望するサラキ岬に立つのが、咸臨丸終焉の地碑。幕府がオランダから購入した西洋式軍艦の「咸臨丸」は、維新後の明治4年9月20日(1871年11月2日)、このサラキ岬沖の岩礁で沈没しています。

咸臨丸沈没はアメリカ人船長の操船ミス!?

サラキ岬(咸臨丸終焉の地)

安政4年(1857年)にオランダのキンデルダイク、フォップ・スミット造船所で完成した咸臨丸は、全長49m、幅8m、3本マスト、バーク型の木造スクリュー蒸気艦(満載排水量620トン、日本から海外へ発注された最初の船)。
長崎海軍伝習所の航海艦(練習艦)として使われ、勝海舟、矢田堀景蔵、中島三郎助、鈴藤勇次郎、小野友五郎、浜口興右衛門、榎本武揚らを育てています。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため、アメリカ軍艦ポーハタン号に伴う派遣艦としてアメリカを往復しています(勝海舟は船酔いに苦しみ、ほとんどブリッジに姿を見せず、ブルック大尉、小野友五郎、ジョン万次郎らが操船しています)。
その後、小笠原に調査派遣されています(幕府はそれに基づき諸外国に日本の領有権を通告)。

戊辰戦争では箱館(現・函館)へと向かった榎本艦隊と銚子沖で暴風雨のためはぐれてしまい、清水へ入港し官軍に拿捕され、箱館戦争には参加していません。
維新後は、明治政府の物資輸送船となり、明治4年、北海道へ移住する旧仙台藩亘理領の旧藩士とその家族401名余を乗せ箱館から小樽へと向かう途中、サラキ岬沖で遭難、沈没。
泉沢村(現・木古内町泉沢)の名主の新井田久治郎は磯船を出して沈み行く咸臨丸に近づき、401人全員を無事に救出。
翌日、徒歩で箱館に戻り、仙台からの第二陣が乗船する「庚牛丸」に乗り換えて小樽に到着し、札幌の白石と手稲に別れて開拓に尽力しています(手稲と白石に分かれたのは遭難時に子供、老人から下船させるべきと主張した家老と、乗船時の順番とする開拓執事を命じられ家老・佐藤孝郷が対立したからとも)。

明治20年、清水次郎長が清見寺(清水市興津)に咸臨丸乗組員殉難碑を建立していますが、正確な沈没地点はわからないままでした。
開拓使は暴風に遭遇としていますが、救助の状況や移住者の便りから、波穏やかだったことがわかっており、その最期は謎に包まれていたため、地元ではやむなく浜辺に「咸臨丸ここに眠る」と標識を立てていたのです。

昭和59年、サラキ岬沖で鉄製の朽ちた錨(いかり)が発見され、その後の調査研究によって沈没の原因がアメリカ人操船者の操船ミスによるため、北海道開拓使が事故をひた隠しにしたため、沈没場所を含めて長年謎に包まれていたというのが明らかになってきたのです。

平成18年9月20日、錨は咸臨丸のものと発表、それまでは殺風景で通過ポイント的だったサラキ岬に造船地・オランダの国花のチューリップ60種5万球が植栽され、咸臨丸終焉の地碑や咸臨丸のモニュメントが設置、新名所として生まれ変わっています(開花期には『サラキ岬チューリップフェア』も開催)。

地元に「咸臨丸とサラキ岬に夢みる会」が組織され、例年8月中旬のお盆に『きこない咸臨丸まつり』も行なわれています。

サラキ岬(咸臨丸終焉の地)
サラキ岬(咸臨丸終焉の地)
名称 サラキ岬(咸臨丸終焉の地)/さらきみさき(かんりんんまるしゅうえんのち)
所在地 北海道上磯郡木古内町亀川
関連HP 木古内町観光協会公式ホームページ
ドライブで 函館江差自動車道木古内ICから約7km
駐車場 あり/無料
問い合わせ 木古内町観光協会 TEL:01392-6-7357/FAX:01392-6-7358
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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