ロシアの南下に備える最前線で警備をするために、寒さに強いとの理由で、1807(文化4)年、津軽藩士230名が宗谷に派遣されています。冬の厳しい寒さで多数の越冬死者を出し、翌1808(文化5)年には、内藤源助、梶原平馬率いる会津藩士587名が交代要員として派遣。犠牲となった藩士の墓が、宗谷歴史公園内に移設されています。
北方警備に散った藩士の墓
会津藩士は宗谷のほかに樺太、利尻、礼文にも駐留していますがやはり水腫病などにより多くの犠牲者を生んでいます。
1821(文政4)年、宗谷場所(宗谷地方の役所)は松前藩領となりますが、1855(安政2)年、宗谷場所は再び天領となり、秋田藩が出張陣屋を築き宗谷警備を行なっています。
犠牲者の墓は往時には海岸に点在する墓地にありましたが、明治時代に村民の手により1ヶ所に集められ、昭和3年に13基が宗谷青年
団の手によって現在地に移されています。
うち3基が会津藩士の墓(要久右衛門、原田喜十郎記里、平田八十八保実/文化5年没)。2基が秋田藩士(後藤伊左衛門忠安、吉成彦内)で残り8基は幕府の関係者と推測されています。
宗谷歴史公園・旧藩士の墓 | |
名称 | 宗谷歴史公園・旧藩士の墓/そうやれきしこうえん・きゅうはんしのはか |
所在地 | 北海道稚内市宗谷村宗谷 |
関連HP | 稚内市公式ホームページ |
ドライブで | 稚内空港から約16.3km |
駐車場 | 5台/無料 |
問い合わせ | 稚内市観光交流課 TEL:0162-23-6161 |
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