北海道をツーリングするライダーたちに異色の地として注目されるのが、三毛別羆事件復元地(さんけべつひぐまじけんふくげんち)。大正4年12月9日、北海道苫前郡苫前村三毛別(現・苫前町三渓)六線沢の開拓集落が冬眠前のヒグマに襲われ、胎児を1人を含む7人が死亡、重傷3人という日本史上最悪の熊被害が発生した場所です。
12月9日、六線沢集落の池田富蔵宅がヒグマに襲われる!
以下、凶暴なクマ被害の内容(センシティブな内容)が含まれるので、ご注意ください。
庄内藩陣屋跡(江戸時代後期に北海道防備に築かれた庄内藩の陣屋があった地)のある三毛別川河口から上流へ24kmほど遡った地が、三毛別羆事件復元地。
途中からはダート(未舗装)となりますが、ベアロードという愛称の付いた北海道道1049号(苫前小平線)が通っているので、無雪期なら手軽に到達できます。
北海道の開拓は、初期の囚人による道路開削、屯田兵の開墾を含めて、その生息環境が脅かされたヒグマとの闘いでしたが、大正時代になっても開拓民はヒグマの被害に怯えていました。
大正4年11月の初旬、六線沢集落の池田富蔵宅にヒグマが現れ、トウモロコシ畑が荒らされました。
11月20日未明にもヒグマが出没したため、マタギ2人に張り込みを依頼、そこにヒグマが現れましたが傷を負わせただけで逃げ去ったのです。
最初の事件発生は12月9日。
開拓民・太田三郎宅の内縁の妻・阿部マユと養子に迎える予定だった蓮見幹雄がヒグマに襲われたのです。
当時6歳だった蓮見幹雄は囲炉裏端(いろりばた)で、喉と側頭部に親指大の穴が開いて絶命、阿部マユは血痕と窓枠に数十本の頭髪が絡みついたのが被害の痕跡ですが、ヒグマに連れ去られていました。
この日は日没が迫ったので追跡は行なわず、翌12月10日朝から探索を開始。
すぐ近くでヒグマを見つけますが突然で、しかも手入れが行き届いていない銃だったため、唯一使用可能な1丁の銃声を聞いてクマは逃走。
トドマツの根本に、保存食にしようとしていた阿部マユの遺体を見つけたのです(発見された遺体は脚絆を巻いた脚の膝下部分と、頭蓋の一部を残して食べ尽くされていました)。
ヒグマは通夜の席に乱入!
12月10日の夜、太田三郎宅で通夜が行なわれましたが、ヒグマの襲来を恐れて列席者もわずかに9人だけでした。
通夜のさなかの20:30頃、ヒグマが太田三郎宅に乱入し(自分の餌を取り返そうと侵入)、自分が保存食にしようとしていた阿部マユの遺体の入った棺桶をひっくり返しましたが、一同は外に逃げたり、梁(はり)に上ったところを、300m先の家で食事をしていた50人が駆けつけ、クマは逃げていきました。
20:50頃、通夜のあった太田三郎宅から500mほど下流の明景安太郎宅にヒグマが襲いかかり、囲炉裏とランプの火が消えて真っ暗に。
居間にいた明景安太郎の子、金蔵(3歳)と事件の通報に古丹別巡査駐在所に向かっていた斉藤石五郎の子・春義(3歳)を殺害。
斉藤石五郎の妻・斉藤タケ(妊婦)は野菜置き場に隠れますが、ヒグマに発見されて引きずり出され、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしますが、頭から食い殺され、胎児とともに絶命。
駆けつけた村の男性らは内部の状況が判然とせず、焼き討ちにする、一斉射撃を行なうなどの強硬策も取ることができないため、鉄砲を空に向かって放つと、ヒグマは悠然と逃げていったのです。
結果的にこの日の襲撃では、明景金蔵、斉藤タケ、斉藤巌(6歳)、斉藤春義、タケの胎児の5人が殺害され、明景ヤヨ、明景梅吉、長松要吉の3人が重傷を負っています。
北海道庁警察部羽幌分署が編成した討伐隊は、明景安太郎宅に残された犠牲者の遺体を「餌」にしておびき寄せ、射殺するという計画を立てますが、ヒグマは警戒して失敗。
歩兵第28連隊の将兵30名が出動するという大事件になりますが、事件発生の4日後、12月14日夜に討伐隊がようやく射殺して終結をみたのです。
投入された討伐隊員は官民合わせてのべ600人、鉄砲60丁という捕物となり、日本史上最悪の熊被害として語り継がれています。
この事件から死んだふりは無意味、火を恐れるは嘘、逃げるものを追う、執着心が強いなどの教訓を得ていますが、今も「クマにあったら死んだふり」という迷信は残されているので要注意です。
日本史上最悪の熊被害、三毛別羆事件とは!? | |
所在地 | 北海道苫前郡苫前町三渓 |
場所 | 三毛別羆事件復元地/さんけべつひぐまじけんふくげんち |
関連HP | 苫前町公式ホームページ |
ドライブで | 旭川空港から約151km。深川留萌自動車道深川西ICから約102km |
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