北海道豊頃郡浦幌町厚内、十勝川の河口から釧路方面に向かい海岸沿いに走ると、北海道道1038号(直別共栄線)の厚内を過ぎた先で、不思議な台形の丘が目に入ります。これがアイヌ時代の砦(とりで)、オタフンベチャシ跡(国の史跡)。今ではエゾキスゲ咲く原生花園風な台地ですが、アイヌ抗争の最前線だった砦です。
オタフンベは「鯨の寄る砂浜」の意

並走するJR根室本線とともに北海道道1038号(直別共栄線)が海岸を離れる場所にあるので、海岸を離れる手前で左手に注目を。
十勝と釧路を結ぶ幹線国道の国道38号を走る人が多いのですが、ドライブ的には、十勝川の河口から国道336号(浦幌道路)に入り(途中には海に落ちる黄金の滝も)、昆布刈石で北海道道1038号(直別共栄線)に入るルートが断然おすすめです。
まさに十勝風景街道の海岸の部ではトップクラスの絶景街道です。
さてさて、オタフンベチャシ跡のオタフンベとはアイヌ語でオタ・フンペ(ota-humpe/砂・鯨)の意。
チャシは、アイヌ語のチャシ(casi)で、16世紀〜18世紀頃の砦の意。
単なる防衛的な砦、見張り台というだけでなく、祭祀や、チャランケ(話し合い)の意味もあり、オタフンベチャシなら鯨の接近を見張ることもあったかもしれません。
広尾から襟裳岬に向かう黄金道路途中にフンベの滝がありますが、このフンべの滝もフンペ(humpe/鯨)に由来する滝名です。
十勝海岸には海流の影響で鯨が打ち寄せられることがあり、オタ・フンペは、「クジラが漂着した砂浜」ということに。
寄り鯨(よりくじら)、流れ鯨(ながれくじら)とも称されるもので、専門的には座礁鯨類。
オタフンベチャシ跡は標高27m。
チャシ跡に登る場合はカーブの手前(カーブの道路表示近く)に1台分ほどの駐車スペースがあり、そこに史跡の看板が出ています。
秋になるとブッシュとなり、よじ登るのが難しくなるので、初夏くらいまでがおすすめです。
オタフンベチャシ跡に立つと、十勝側のオタフンベ海岸を眼下に、太平洋が広がる絶景を得ることができます。
よく見ると壕が囲む台地であることがわかりますが、台地の広さは21m×7m。
白糠(しらぬか)のアイヌと、厚岸(あっけし)アイヌの抗争の地(現在も十勝支庁と釧路支庁の境界近くです)だといわれ、厚岸アイヌはメナシアイヌ(釧路〜根室、羅臼に勢力範囲を有したアイヌ)の一大勢力で、白糠のアイヌにとっては、ここが防衛の最前線だったのです。
撮影/大石正英

アイヌの捕鯨
アイヌの捕鯨は、海岸に打ち上がる寄せ鯨を待っていたのかといえば、実は小舟を使った捕鯨も行なわれていたようです。
天明元年(1781年)、松前藩主・松前邦広の五男・松前広長(まつまえひろなが)編纂した『松前志』には、「東部夷地キイタツプ辺より東北の夷人は、小舟を連ね、毒箭或は刃なんどを鏃となして射とる」と記されています。
キイタツプとは、霧多布 ( きりたっぷ ) のことなので、道東のアイヌはこうした鯨漁を行なっていたと推測できます。
択捉島(えとろふとう)ではマッコウクジラを「毒箭(どくせん=毒矢のこと)をもって射申し候」という記述が近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)の書簡に残されているので、トリカブトから採った毒を塗った毒矢を放ち、弱ってきたところで、捕獲していた可能性もあります。
サケ・マスなど漁獲資源に恵まれていた白糠のアイヌが、果たして危険を犯して捕鯨を行なっていたのかは定かでありません。
寄り鯨は、貴重なタンパク源で油資源(鯨油)だったことは間違いありません。
【十勝風景街道】 オタフンベチャシ跡は、アイヌ抗争の地 | |
所在地 | 北海道十勝郡浦幌町字直別1-2 |
場所 | オタフンベチャシ跡 |
ドライブで | 帯広空港から約71km |
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