文明5年(1473年)、武田信広(武田信廣)が勝山館(かつやまだて=勝山の居館)内に館神として創建した社が上ノ國八幡宮。江戸時代中期に始まったとされる例大祭が斎行されます。祭囃子が鳴り響き武士の姿で練り歩く「御徒士行列(おかちぎょうれつ)」や山車が上ノ国町内を練り歩きます。
蝦夷地の中世を代表する和人の城郭、勝山館に創建された古社
勝山館は、後の松前氏の祖である武田信広が、海を見渡す上ノ国の夷王山山上に15世紀後半に築いた山城。16世紀末頃まで武田・蠣崎氏(かきざきし)の拠点として蝦夷地の日本海側での政治・軍事・北方交易の一大拠点となりました。
城の背後から山頂に向かって中世和人とアイヌ人の墳墓群(夷王山墳墓群)が発掘され、アイヌと和人が同じ城郭の中に生活していたことが判明、国の史跡に指定されています。
和人の墓、アイヌの墓など勝山館の発掘結果は、「勝山館跡ガイダンス施設」に展示され、見学できます。
御徒士行列に大注目
その勝山館の鎮守である上ノ國八幡宮は、道内に現存する神社建築では最古のもの。福井県特産の笏谷石製室町様式の狛犬が社殿奥深く祭神を護っています。
本殿は元禄12年(1699年)の建立で北海道内に現存する神社建築では最古のもの。
御徒士行列は、松前藩が先祖の土地の上ノ国に敬意を表し(松前に城が移る前の本拠地が上ノ国)、例大祭の際だけ、徒歩でお伴をする住人に武士の恰好を許した故事に由来。
行列が「ヤァーキタリ」と声を掛けながら左右に大股で進むのは、当時、松前藩から上ノ国へと来た人々が口にした言葉に由来するのだとか。
北海道StyleMEMO/武田信広
武田信広は、永享3年(1431年)2月1日、若狭国の守護大名・武田信賢の子として若狭小浜・青井山城に生誕と伝えられますが定かでありません。陸奥国・宇曽利(芦崎湾・大湊湾・大湊港の古代の名=現在の大湊市)に移り、南部家の領分から田名部・蠣崎(かきざき)の知行を許され、蠣崎武田氏を名乗るようになります。
享徳3年(1454年)8月28日、南部氏に反旗を翻した生駒政季を奉じて南部大畑(青森県むつ市)から蝦夷地(北海道)に渡り、上ノ国花沢館の蠣崎季繁に身を寄せた。和人武士団とアイヌの間で勃発したコシャマインの戦いで活躍し、寛正3年(1462年)に勝山館を築城。築城年は定かでありませんが、勝山館の北端にある館神八幡宮(たてがみはちまんぐう=上ノ國八幡宮の元宮)の創建が文明5年(1473年)と伝えられているため、それ以前の築城と推定できます。
上ノ國八幡宮例大祭・渡御祭|上ノ国町 | |
開催期間 | 2016年9月17日(土)~9月18日(日) |
場所 | 上ノ國八幡宮 |
所在地 | 北海道檜山郡上ノ国町上ノ国238 |
電車・バスで | JR木古内駅からバス1時間10分、大留下車、徒歩15分 |
ドライブで | 道央自動車道国縫ICから約97km |
問い合わせ | 上ノ國八幡宮社務所 TEL:0139-55-2065 |
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