中標津空港と世界遺産・知床羅臼を結ぶ道道774号(■関連記事■中標津空港から世界遺産・知床羅臼への最短絶景ルート)途中に60kmの法定速度で走ると『知床旅情』が流れるというメロディーロードへの入口があります(■関連記事■道路を走ると『知床旅情』が流れる! メロディーロード)。
そのメロディーロードの看板の横に「標津町文化財 川北海軍航空基地跡」の表示が。
滑走路跡がメガソーラーに変身!
実は知床半島付け根で、国後島、択捉島など北方の島々を視野に入れるこの地は国境防備の要衝。それは江戸時代も昭和になっても変わりませんでした。昭和12年に国鉄標津線が根室中標津駅まで開通したのも、道東・根釧原野(こんせんげんや)開拓という目的だけでなく、国境の防備という命題もあったのです。 日本海軍は中標津に標津第一航空基地(中標津飛行場)、そして現在の標津町川北地区に標津第二航空基地(川北飛行場)を、日本陸軍が航空隊計根別飛行場を建設します。
本土決戦が叫ばれる昭和19年に建設が始まったのが標津第二航空基地(川北飛行場)。アメリカ軍の北海道上陸への備えだったのでしょう主滑走路、地下通信室、司令室、戦闘指揮所、兵舎、無蓋掩体壕などが突貫工事で建設されますが、完成に至らず、実戦で使われることなく廃止されています。
滑走路は全長1200mで、北側のメロディーロード側に飛行機を格納する掩体壕(えんたいごう)が築かれています。南房総などに現存する掩体壕は、強固なコンクリート製ですが土を盛るだけの無蓋掩体壕。4基が標津町の史跡として現存しています。航空写真からも、現地の道路からも草ボウボウに見えるだけでハッキリと掩体壕を確認することは困難です(下の写真/標津町の案内板)。
滑走路は近年まで牧草地でしたが(TOPの画像=牧草地だった頃の川北飛行場跡)、「シャープ知床しべつ太陽光発電所」として平成26年4月に開局しています。空撮写真からもソーラーパネルが並ぶ様子がよくわかります。
【標津第一航空基地】
第二次世界大戦末期の昭和19年に標津第一航空基地(中標津飛行場)として開港。昭和20年にアメリカ軍の空襲を受け、戦後廃港に。昭和32年に北日本航空(北海道で設立された航空会社で日本エアシステムに吸収合併)が飛行場跡を利用して遊覧飛行を開始。昭和34年に中標津〜札幌線を開設し定期航路の飛ぶ飛行場に。
【計根別飛行場】
昭和16年に開港した航空隊計根別飛行場(第1飛行場から第5飛行場まであり、第1は計根別に第4飛行場は西春別にあった)は、昭和20年にはアメリカ軍の空襲を受け、戦後アメリカ軍が進駐しましたが閉港が決まり、農地として払い下げられます。ところが昭和27年、アメリカのからんだ朝鮮戦争の激化で滑走路が復元可能な第4飛行場のみ復旧。昭和33年には自衛隊管理になり、西春別空港として丘珠(札幌)空港〜女満別空港~西春別空港にDC-3が飛んだこともありました。
昭和40年に中標津空港開設以降は民間機は中標津発着になり、計根別飛行場は航空自衛隊の管理する飛行場となっています。別海フライトパークは航空隊計根別飛行場・第1飛行場の誘導路部分を転用したものです。