北海道稚内市、遠浅の岩礁が続く宗谷岬、その背後の高台にある頑強なコンクリート造りの遺構が、旧海軍望楼。明治35年に帝国海軍が構築したものですが、何を目的に宗谷岬に築いたのでしょう。宗谷岬から快晴の日には樺太(サハリン)が視認できますが、構築時には樺太の全体がロシア領でした。
バルチック艦隊の宗谷岬通過を監視

明治日本の近代化で、列強の仲間入りを果たそうと軍備も近代化を進めていましたが、同様に清国も艦隊を強化、日清戦争直前には日本を仮想敵国とする北洋艦隊(北洋水師)が脅威となっていました。
イギリスとドイツから新鋭の艦を購入し、日本の海軍はドイツで製造された「定遠」、「鎮遠」への対策を講じる必要がありました。
日清戦争直前の明治27年6月30日に公布された海岸望楼条例で海岸望楼(後の海軍望楼)の設置が決まりましたが、これは日本の沿海に清国艦隊が接近したときにいち早く確認しようという考えでした。
明治27年までに全国13ヶ所の海岸や離島に海岸望楼が設置され、軍用電信線による暗号電信で、敵艦の接近を知らせる態勢を確立しています。
明治33年5月の海軍望楼条例が施行され、海軍望楼という呼称に変更。
明治38年度までにさらに25ヶ所の常設望楼が設置されていますが、これは日清戦争後、次なる脅威はロシアの南下政策となったからです。
この25ヶ所の常設望楼のひとつが、大岬(宗谷岬)に構築された海軍望楼。
当時、世界最強といわれたロシアのバルチック艦隊が、宗谷海峡を通過し、日本海で連合艦隊と海戦となることを想定していたのです。
明治38年に日露戦争が勃発すると、その重要度はさらに増加し、海軍無線電信所を設置。
樺太上陸特別派遣軍である第13師団海上輸送護衛の通信連絡に従事することになったのです。
日露の海戦時にバルチック艦隊は、東シナ海を通過したため、海軍望楼としての役割は果たせませんでしたが、日本海海戦でバルチック艦隊が手痛い敗北となった後、敗走するロシア軍艦「ノーウイック号」と日本海軍巡洋艦「対馬」、「千歳」が宗谷岬沖で戦闘となりましたが、その際に、重要な役割を担ったのです。
ちなみに宗谷岬には、昭和14年に陸軍の砲台も設置され、四等三角点「大岬」横に旧陸軍砲台指揮所も現存しています。
あまり知られていませんが、第二次世界大戦時、宗谷岬には陸軍の宗谷臨時要塞があったのです。


宗谷岬にある旧海軍望楼、何を監視した!? | |
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