北海道と樺太を結んだ「最北の鉄道連絡船」稚泊航路とは!?

稚泊連絡船

大正12年〜昭和20年の間、北海道北端の稚内港と、樺太(からふと)南端の大泊(現・コルサコフ/Корсаков)とを結んだ鉄道連絡船が稚泊航路(ちはくこうろ)。往時、樺太に渡る人は、青函連絡船で北海道へ、そして稚泊連絡船で樺太へと渡りました。大泊から先は豊原(現・ユジノサハリンスク)まで樺太庁鉄道が連絡していました。

宗谷本線と南樺太庁鉄道を結ぶ鉄道連絡船

稚泊連絡船
稚泊航路に就航の「対馬丸」(関釜連絡線時代の姿)

明治8年の千島樺太交換条約でロシア領となっていた樺太ですが、明治38年、日露戦争後のポーツマス条約(日露講和条約)で、樺太南部が日本領土となりました。
当時の南樺太は、軍政が敷かれ、大泊〜豊原(43.3km)の間に軍事物資を輸送するため、明治39年9月24日、軌間600mmという軽便鉄道(軍用鉄道)を敷設、この南樺太を縦貫する鉄道が民間の旅客・貨物輸送も担いました。

明治40年3月15日、樺太庁が発足、鉄道も樺太庁に移管されて樺太庁鉄道となり、明治43年には国鉄と同じ狭軌(1067mm)に改軌しています。
こうした南樺太の発展を受け、宗谷本線との鉄道連絡航路として誕生したのが、稚泊連絡船(ちはくれんらくせん)です。

第1船は青函航路で活躍の「壱岐丸」(1681t)でしたが宗谷海峡は冬になると流氷で閉ざされるため、明治38年11月1日、砕氷船に改造された「対馬丸」(1679t)が就航しています。
「壱岐丸」、「対馬丸」はもともと山陽鉄道(山陽本線の前身)翼下の山陽汽船が、下関〜釜山の鉄道連絡船「関釜航路」用に新造された船で、山陽鉄道の国有化後の大正11年に青函連絡船に転用され、稚泊航路の開設船となりました(稚泊航路では貨車航送は行なっていません)。

砕氷船に改造された「対馬丸」の就航で、「壱岐丸」は大阪商船に売却されて南の琉球航路に転じ、さらに昭和12年からは稚内と樺太西海岸の本斗を結ぶ稚斗航路にも就航しています。
戦後は青函連絡船や青森〜室蘭航路で運用され、昭和26年、室蘭で解体。
「壱岐丸」の号鐘はさいたま市の鉄道博物館にあるヒストリーゾーンに展示されています。

船の等級は、当時の国鉄と同じで1等、2等、3等の3等級。
1等は専用の食堂や談話室を備え、2人用の寝台など、現在の豪華フェリー並みの設備を有していました。
2等も寝台で、3等は蚕棚式の2段雑居スタイルでした。

稚泊航路は需要が多く、昭和2年、3000t級の砕氷貨客船「亜庭丸」(あにわまる)、昭和7年「宗谷丸」と大型化しています。
それでも流氷、大寒波などで海が閉ざされ、欠航を余儀なくされることもありました。

旅客と貨物の増加を受け、稚内駅から稚内港の桟橋間に線路を延伸。
昭和13年、稚内桟橋駅(稚内駅の構内の扱い)を設置し、現存する稚内港北防波堤ドームも完成しています。
稚内側で残される貴重な遺構がこの北防波堤ドームで、土木遺産、北海道遺産にも認定。

稚泊連絡船
北防波堤ドームと稚内港桟橋に接岸する「亜庭丸」
北海道と樺太を結んだ「最北の鉄道連絡船」稚泊航路とは!?
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稚内港北防波堤ドーム

稚内港にあるゴシック建築を模した半アーチ形ドーム型の防波堤。昭和11年、稚泊連絡船(ちはくれんらくせん=北海道と樺太を結ぶ鉄道連絡船)の桟橋の保護と桟橋を利用する乗客の便宜のために建設されたもの。高さ13.6m、全長は427m。昭和13年に

稚内駅

宗谷本線稚内駅は、日本最北端の駅。樺太と結ぶ鉄道連絡船「稚泊航路」の稚内港駅が前身になっている。平成24年に駅舎は全面リニューアルされ、駅舎を含めた「道の駅わっかない」がオープンしています。日本最北端の線路として存在した車止めとレールは、駅

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