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【知られざる北海道】vol.10 江差の姥神大神宮の船絵馬に注目!

「江差の五月は江戸にもない」。北前船による江差の繁栄を端的に表す言葉としてよく、引き合いに出されるフレーズです。でも、この言葉の意味を理解している人は、実はあまり多くはありません。それは、どうして江差が北前船の起点となったのかという視点が欠けているからです。

姥神大神宮の藤枝宮司が奉納された船絵馬を解説(取材時のもので、現在の宮司は鎌田宮司です)

松前藩の藩主は参勤交代も命がけだった! なぜなら・・・

松前藩は、慶長5年(1600年)、福山館(ふくやまだて/福山城=松前城)を現在の松前に築きますが、それ以前、中世には現在の上ノ国町の夷王山(いおうざん)に山城・勝山館(かつやまだて)がありました。夷王山の麓、天の川の河口は天然の良港で、古代から中世に至るまで、この湊が交易の中心だったと考えられます。

しかし、津軽に近いなどの諸事情により、松前に近世的な城郭である福山館(福山城、江戸時代末期に天守が完成し松前城に)を建築し、城下町を整備します。
当然、湊も整備しましたが、実は、松前の湊には日本海交易を担う上で、大きなデメリットがあったのです。北海道の南端である白神岬と、本州の北端である龍飛岬との間には津軽海峡が横たわっています。白神岬と龍飛岬の間には、流れの速い潮があり、船乗りの難所になっていたのです。
参勤交代で松前湊を出航した松前藩主が、荒海を越えて無事に津軽に到着すると、狼煙(のろし)で松前に知らせが届き、藩士は登城して藩主の無事を祝ったといいます。まさに松前藩主にとって津軽海峡を渡る参勤交代は命がけだったのです。

そんな松前藩ですが、5代藩主・松前矩廣の代には1万石並の大名に準じた扱いとなり、9代・松前章廣のときに、正式に1万石格となっています。ところが、実際に松前藩では、当時米は採れませんでした。近年、北海道でもおいしい米が産するようになったのは、品種の改良と、若干の温暖化によるものです。

江戸時代の松前藩は米に代わるものとして、鰊(にしん)や、ヒノキ、アスナロなどの檜材や昆布を輸出する「交易」で経済を成り立たせていました。北前船で運ばれる昆布は、越中(富山県)などを経て遠く琉球王国から中国へと輸出されてもいました(越中では昆布を代価に琉球の漢方薬を入手していました)。今、昆布の消費量一の県が富山県や沖縄県なのはそんな理由もあります。

そんな大切な資源を有する松前藩は、江戸登城が命がけだという点も考慮されてか、通常ならば「一年一勤」のところが、対馬藩と同様に「三年一勤」が許され、さらに江戸時代中期には「六年一勤」が特別に許可されています。

松前に館が移る前の拠点が夷王山の勝山館
江差の繁栄を今に伝える江差屏風

江差の繁栄を支えたのは近江商人

話がそれましたが、松前は津軽海峡に面するという地理的な理由で、貿易港としては不向きでした。
そこで松前藩が目を付けたのが、鴎島(かもめじま)が防波堤の役割を果たす、またとない地勢の江差です。周辺の山で伐採された木材を積み出す小さな湊だった江差は、松前藩最北の湊(つまり、北方交易)としても重要な地位を占めることになります。

江戸時代に松前藩が交易を認めた湊は、江差、松前、箱館(現在の函館)の3ヶ所でした。
ですから江差以北の産物は、明治3年に北前船が小樽まで延伸されるまで、江差湊に集中して集まることになりました。つまり江差は、江戸時代から明治の初めまでずっと、日本海の大交易ルートの出発点であり、終点であり続けたのです。
そして、その北前船による交易の中心は、近江商人でした。
江差や松前の海沿いには豪商といわれる廻船問屋が軒を連ねましたが、その大半は近江商人でした。蝦夷地で最初の商売をした商人は、歴史に残る限りでは彦根城下の柳川湊(琵琶湖の湊)に住んだ近江商人・建部七郎右衛門らで、野菜の種などを蝦夷地に販売したといわれています。

松前藩の初代藩主となる松前慶広(まつまえよしひろ)は、近江愛知郡の柳川湊(現・滋賀県彦根市柳川町)の建部七郎右衛門を上手に取り込み、京・大坂の情報と物資を仕入れ、日本海(敦賀経由)と琵琶湖を使った交易ルートを確立していったのです。

国の重要文化財「旧中村家住宅」は、近江商人(神崎郡八幡村=現・東近江市能登川町出身)の大橋宇兵衛が江戸時代の終わり頃に建てたもの。
姥神大神宮に伝わる有名な『渡御祭』(「姥神大神宮渡御祭と江差追分」として北海道遺産に認定)は、京の祇園祭の流れをくむもので、まさに北前船での交易によってもたらされた、最北の『祇園祭り』です。
姥神大神宮渡御祭に使われる道指定文化財の山車「松寶丸」を作った近江屋利兵衛も近江商人です。

さて、前置きがうーんと長くなりましたが、表題の姥神大神宮です。
姥神大神宮の創建は定かでありませんが地元の折居という名の老女(天変地異を未然に知らせる老女)を折居様と崇めたことに由来し、文安4年(1447年)といわれています。
伝承はさておき、現在地である江差の中心地に鎮座したのは正保元年(1644年)。まさに、北前船での交易の守り神たらんとしての鎮座のごとくです。折居姥はその伝説(詳しくは省略しますが)からニシン漁の始祖と呼ばれ尊崇されていました。境内社の折居社は、この折居姥が祭神です。

姥神大神宮の拝殿で船絵馬を見学

さてさて、宮司の藤枝正承さんの案内で、姥神大神宮の拝殿に入りましょう。
入口の頭上に掲げられた大きな絵馬には6隻の和船が描かれています。これが北前船(弁財船)です。
「明治12年に弁財船の所有者である江差姥神町の船主・田口伊兵衛が6隻の船頭とともに航海の安全を祈って奉納したものです。田口伊兵衛も近江商人だったと聞いています」(藤枝宮司)とのこと。

明治時代になると洋式の帆を取り入れた改良和船(合いの子船)が登場しますが、ここに描かれた船は純粋な北前船です。ディテールまで正確に描かれているので、美術品として、歴史考証としても一級品だと思われます(江差町の文化財に指定されています)。

松前藩では江差を含め鰊を鯡(にしん)と書きました。米の採れない松前藩では、鰊は魚以上に重要な産物だったというわけです。
いずれにせよ、北前船は、物流が未発達であることを逆手に取って生産地(供給地)と消費地(需要地)の価格差で莫大な利益を得る商法です。
大坂(大阪)を春の彼岸頃に出航し、まずは瀬戸内の湊に寄港してから下関を回って日本海に出ます。日本海沿いに北上し、三国湊(現・福井県)など取引のある湊に寄りながら蝦夷地へと向かいます。江差、松前、箱館などの湊に入って積荷を売りさばいてから、5~6月に獲れる鰊などを仕入れて、波の出る季節の前に大坂に戻ります。
というわけで、江差の5月は・・・、はニシン漁と、北前船の寄港で最大の活気ある時季を謳っているのです。

江差や松前、そして函館の神社には船乗りや廻船問屋が寄進した「方角石」(方位を記した石)も寄進されています。このことも、興味を誘う話題ですので、別の機会に紹介したいと考えています。

北前船と江差の繁栄を解説する藤枝宮司(取材時のもので、現在の宮司は鎌田宮司です)
姥神大神宮
名称姥神大神宮/うばがみだいじんぐう
所在地北海道檜山郡江差町姥神町99
電車・バスでJR江差駅から徒歩20分
駐車場江差追分会館駐車場(20台/無料)
問い合わせ姥神大神宮 TEL:0139-52-1900/FAX:0139-52-1910
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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