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「日本最北の古墳」は、北海道・江別市に! 埋葬者はどんな人!?

江別古墳群

日本最北端の前方後円墳は、岩手県奥州市にある角塚古墳で、古墳時代、ヤマト王権の勢力北限と推測できますが、津軽海峡を渡った北海道の道央、江別市にある江別古墳群が、「日本最北の古墳」。ただし、平安時代初期を中心とした群集墳で、本州では平安京に遷都された頃に築かれたものです。

弥生時代以降、北海道は独自の発展を遂げる

連合を組んだ首長には、そのシンボルとして前方後円墳の築造を許したと推測できるヤマト王権の勢力範囲は、前方後円墳が築かれた範囲と推測できるので、東北北部がギリギリで、蝦夷地(北海道)は、勢力範囲外だったと推測できます。

縄文文化は、温暖な気候を背景に(今よりも海面が高く、海が関東平野や釧路湿原の奥など内陸まで入り込むという縄文海進でも有名)、東北北部、北海道南部で花開き、一帯には多くの縄文人が暮らしていました。

弥生時代は稲作の伝来でスタートする農耕文化ですが、北海道では稲作が困難だったため、弥生時代はなく、本州の弥生時代から古墳時代には、続縄文時代と呼ばれる文化となっています。
北方系の文化と、本州から流入する文化が融合したのが続縄文文化で、道央では江別文化が花開いています(オホーツク海沿いはオホーツク文化圏です)。
その後、本州の飛鳥時代以降には土器の表面に刷毛目が付けられた擦文時代(さつもんじだい)が到来します。
アイヌ文化は、本州でいえば鎌倉時代以降なので、江別古墳群(群集墳)を築いたのは北海道の時代区分では、擦文時代の首長ということに(本州の時代区分では平安時代初期の首長ということになります)。

本州における律令制の始まりで、北海道に群集墳が築かれる

本州と異なる歴史を有する北海道ゆえに、少し前置きが長くなりましたが、江別古墳群は、昭和6年、旧豊平川の段丘上で小学校の教師・後藤寿一(ごとうじゅいち)が16基を発見、「後藤遺跡」と呼ばれた古墳群です。
さらに昭和55年の調査で21基の古墳が確認されていますが、北海道道110号(江別インター線)の道路工事などで3号墳~5号墳の3基が破壊されています。

東北地方北部に分布する群集墳と同じ系譜で、古墳の墳丘はすでに失われていますが、後藤寿一の調査時点では直径3m〜10m、高さ1m弱の円墳だったことがわかっています。
しかも深さo.5m以上の円形、長円形、馬蹄形の周溝を有していたことから、本州の影響を受けた古墳であることがわかります。

ただし築造されたのは、本州の古墳時代終焉後の8世紀後半〜9世紀中頃。
平城京から平安京に遷都する時代のものですが、発掘調査では古墳の周溝から現在の茶碗に相当する土師器杯(はじきつき)、須恵器坏(すえきつき)が出土しています。
土師器は弥生時代の伝統を引き継ぐ土器ですが、須恵器坏は東京都内でも9世紀の遺構からの出土があり、本州から搬入されたものである可能性が大。

こうした群集墳は、東北地方の北部に多く見たられますが、ヤマト王権の勢力、そして律令制の影響が及ばなかった東北北部・北海道が、勢力圏の東北地方南部との交流を通じて、律令制の影響を受けて誕生した墓制だと推測されます。

しかも北海道では、北海道央部の石狩川流域にほぼ限られ、江別古墳群以外では、恵庭市の茂漁古墳群(もいざりこふんぐん/現・柏木東遺跡)、札幌市北区のK39遺跡の2ヶ所がありましたが、いずれも現存せず、現存する群集墳は、江別古墳群だけとなっています。

奈良時代から平安時代初期にかけては、朝廷による蝦夷討伐が盛んに行なわれた時代で、埋葬される人物は、秋田などの東北からの移住集団とする説、もともと北海道に住んでいた有力者とする説に分かれています。

律令制の始まった8世紀の律令制の及んだ東北南部と北海道との交流を考えるうえで高い学術的価値を有し希少な遺跡として、国の史跡となっています。

「日本最北の古墳」は、北海道・江別市に! 埋葬者はどんな人!?
所在地 北海道江別市元江別858-4、858-4地先
場所 江別古墳群
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