【知られざる北海道】vol.3 義経北行伝説ここに極まる。アイヌの聖地に義経神社

文治5年閏四月晦日(旧暦4月30日/西暦1189年6月15日)に平泉の「衣河館」で自害したとされる源義経ですが、実は、自害は見せかけで、弁慶などとともに北海道に渡った・・・。これが有名な『義経北行伝説』。31歳で生涯を閉じたはずの義経ですが、三陸から北海道の南部にかけてかなり詳細な北行伝説ルートが残されています。

義経神社の拝殿

義経神社の拝殿

『義経北行伝説』によれば義経は蝦夷島に渡った!

『義経北行伝説』によれば、三厩(みうまや/青森県東津軽郡外ヶ浜町)で風待ちをして後、竜飛から蝦夷へ渡ったと。
1670(寛文10)年、江戸幕府の儒家・林羅山(はやしらざん)は、『続本朝通鑑』のなかで、「或日、衣河之役義経不死、逃到蝦夷島其遺種存干今」(義経衣川で死せず、逃れて蝦夷島に至り、その種存す)と記しています。
道南には各地に義経北行伝説の地が残されていますが、その中心的な存在ともいえるのが日高・平取町の義経神社です。

義経神社は、平取町の解説によれば、蝦夷地探検の命を受けた近藤重蔵らにより、1799(寛政11)年に義経の御神体が安置され祀られたのが始まりとか。義経北行伝説の元になる話は室町時代に生まれていますが、蝦夷地に渡ったという確固たるストーリーが確立されたのは江戸時代です。義経一行は、三厩(みうまや)で風待ちをして後、竜飛から蝦夷白神(現在の福島町)に渡り、さらに海岸を北上、アイヌの人々が繁栄していたピラトリ(平取町本町)に至り、ここに定住、アイヌの人々にカムイ(神)と尊敬されたというものです。

義経はアイヌの人々と融和し、農耕や舟の作り方、操法、機織り等の技法を伝授し、アイヌは義経をホンカンカムイと呼んだという話まで、まことしやかに伝わっています。

実は、近藤重蔵は、何の根拠もなく、平取に義経神社を創建したわけではありません。江戸時代中期以降、和人とアイヌの接触も多く、共通の伝承として「アイヌ北行伝説」が存在したのです。近藤重蔵に会ってインタビューすれば、「アイヌ民族が源九郎判官義経を崇拝しているからこそ、法橋善啓に義経公の像を作らせ寄進したんだ」と答えるでしょう。少なくとも記録にはそう残っています。

『義経記』で藤原泰衡に襲撃された場面が描かれた義経の画(中尊寺所蔵)

『義経記』で藤原泰衡に襲撃された場面が描かれた義経の画(中尊寺所蔵)

アイヌの聖地・平取に鎮座する義経神社

平成16年4月に滋賀県の竜王町で第1回目となる『義経サミットIN竜王』が開かれたときに、源義経にゆかりの9市町が、全国から集結しましたが北海道からは唯一平取町が出席しています。この時は、翌年放送のNHK大河ドラマが『義経』(主演・滝沢秀明)が決まり、義経ブームが到来していました。

平取町二風谷(にぶたに)には、アイヌ初の国会議員となった故・萱野茂さんが創設した『二風谷アイヌ資料館』もあります。
アイヌの聖地ともいえる平取町に、義経伝説。一見不似合いにも見えますが、和人からの弾圧・迫害を受け続けたアイヌの、反権力の象徴が義経だったのかもしれません。
歴史的には鎌倉時代頃から東北の武将が蝦夷地に渡ったという事実があるので、ひょっとすると、義経郎党の一部が蝦夷に落ち延びたのかもしれません。
ちなみに先住民族であるアイヌですが、考古学的な意味でのアイヌ文化の確立は13世紀といわれています。
これは、元(モンゴル帝国)の樺太侵攻、間宮海峡の封鎖により、海上からの文化流入が途絶え、北海道で独自の文化が発展したため。
北の大地で育まれたアイヌ文化は、義経伝説をも吸収する大きな度量があったのでしょう。

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常磐御前(義経の母)と静御前(義経の妻)の石碑

常磐御前(義経の母)と静御前(義経の妻)の石碑

 

義経神社 DATA

名称 義経神社/よしつねじんじゃ
所在地 北海道沙流郡平取町本町119-1
営業時間 境内自由
電車・バスで JR富川駅から道南バス振内・日高方面行きで平取下車、徒歩15分
ドライブで 道央自動車道日高道日高富川ICから16分
駐車場 あり/無料
問い合わせ TEL:01457-2-2432/FAX:01457-2-2431

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酒井正人

ラジオ・テレビレジャー記者会会員/旅ソムリエ。 旅の手帖編集部を経て、まっぷるマガジン地域版の立ち上げ、編集。昭文社ガイドブックのシリーズ企画立案、編集を行なう。その後、ソフトバンクでウエブと連動の旅行雑誌等を制作、出版。愛知万博公式ガイドブックを制作。以降、旅のウエブ、宿泊サイトにコンテンツ提供、カーナビ、ポータルサイトなどマルチメディアの編集に移行。