光善寺(血脈桜)

光善寺は、1575(天正3)年建立の浄土宗の寺(百万遍忍教寺の末寺)で松前城北の寺町にあります。創建当初は高山寺と名乗っていましたが、1621(元和7)年、時の後水尾天皇から高徳山光善寺の号を賜わり改称しています。藩政時代には松前藩の内室の菩提寺として繁栄しました。松前の桜の古木・血脈桜(けちみゃくざくら)でも有名。

血脈桜は北前船が運んだ文化のひとつ

光善寺の本堂
血脈桜

本堂などは近年の再建ですが仁王門と山門は箱館戦争の戦禍を免れて現存。
朱色の山門・仁王門は1752(宝暦2)年のもので、その先にある中国風の鐘楼門とともに、ここが北海道であることが信じられないくらいに京都的。

19世紀中頃に造られた美しい庭園、松前の桜の古木・血脈桜(けちみゃくざくら)が境内に。
血脈桜の樹齢は推定280年以上、品種としては北陸地方に自生する桜に近く、北前船とともに運ばれた日本海文化のひとつと推察されています。

品種はマツマエハヤザキで、タカサゴとカスミザクラの交雑種と推測され、元になった桜は本州では見ることができません。

松前を代表する早咲き桜の品種・南殿(なんでん)の親木ともなっている重要な桜です。
本堂再建のために切り倒そうとしたとき、住職の夢枕に「明日は死ぬ身、なにとぞ血脈(血脈=人が極楽へ渡る際の通行手形)を」という声がし、応じて念仏を称え血脈を授けたところ、翌朝授けた血脈の伝書が桜の枝に掛かっていたのだとか。
血脈桜の開花は例年5月上旬頃。

光善寺扁額
門に掲げられる「北海道場」の扁額
 

義経北行伝説を伝える「義経山」の碑

江戸時代の悲劇を今に伝える大石仏
義経北行伝説を伝える「義経山」の碑

境内にある大石仏は、1797(寛政9)年、城下にあった芝居小屋が正月薮入りの日の興行で大雪のため屋根が崩壊、多数の犠牲者を出したことへの慰霊でつくられたもの。
明治42年に光善寺境内に移されました。

また、「義経山」の板碑は、明治維新の際の箱館戦争までこの地にあった義経山欣求院の山号。
戊辰戦争の戦火で寺は焼失、廃寺となりましたが、義経寄進と伝わる仏像と、「義経山」の碑が光善寺に残されたもの。

義経北行伝説
源義経は1189(文治5)年4月、藤原泰衡(ふじわらのやすひら)の急襲を受け、衣川館で討たれています。
ところが、密かに義経は脱出し、蝦夷地(北海道)へと逃れたという説が、まことしやかに伝わっているのです。
それが義経北行伝説。
東北から道南、積丹、日高あたりまで残される伝説ですが、1670(寛文10)年、江戸幕府の儒家・林羅山(はやしらざん)が、『続本朝通鑑』のなかで、「或日、衣河之役義経不死、逃到蝦夷島其遺種存干今」(義経衣川で死せず、逃れて蝦夷島に至り、その種存す)と記しているように、近世(江戸時代)に生まれて広まった伝説です。

 

光善寺(血脈桜)
名称 光善寺(血脈桜)/こうぜんじ(けちみゃくざくら)
所在地 北海道松前郡松前町松城303
関連HP 松前町公式ホームページ
電車・バスで JR木古内駅から函館バス松前バスターミナル行きで1時間29分、松城下車、徒歩7分
ドライブで 函館空港から約106km
駐車場 松前城内寺町共同駐車場(200台/無料)
問い合わせ 光善寺 TEL:0139-42-2680
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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