朱円ストーンサークル

斜里町内で発見されている縄文時代の遺跡はなんと数百ヶ所にも及んでいます。羅臼町・標津町を含め知床半島一帯には豊かな古代人の営みがあったことが判明しています。朱円ストーンサークル(朱円周堤墓)は、奥蕊別川(オクシベツ川)の西側にある遺跡。縄文時代後期の墳墓群です。

大規模なドーナツ状の周堤が築かれた古代人の墓

よく見ると草むらが土俵のように
この部分が縄文人の墓石

地面に円形に竪穴を掘り、掘り上げた土を周囲に環状に積み上げることで大規模なドーナツ状の周堤が造られます。
その区画の中に複数の墓をつくる形式を周堤墓と呼び、北海道独自の縄文文化人の墓のスタイルです。

朱円ストーンサークル(朱円周堤墓)では、直径28mと32m、2つの円形をした土防で区画され、中心部に墓が築かれています。

人骨、土器や石器、石棒、飾り玉などが出土していますが、土器には東北地方と共通する文様が見られることから、古代にはすでに東北地方との交流があったと判明しています。

注目は周堤墓の位置。
夏至に羅臼岳から日が昇り、冬至には藻琴山に日が沈むという心憎い設計に。
当然、古代人はそれを計算してこの地に墓をつくったと思われます。

海岸砂丘(海岸部の高台)の朱円国有林内には700基もの朱円竪穴住居群(朱円千穴)もありますが、残念ながら非公開に。

朱円ストーンサークル
周堤墓の内部はこんな感じ
  

朱円という地名はアイヌ語に由来

ちなみに朱円(しゅえん)という地名ですが、明治時代には朱円(シュマトカリ)村と呼ばれていました。
知床半島の斜里町側の付根一帯、峰浜あたりがアイヌ語でシュマトゥカリと呼ばれ、川の名がスマトゥカリペッ(シマトッカリ川=現在も峰浜集落に河口があります)でした。
スマ・トゥカリ・ペッ(suma・tukari・pet=石・~の手前・川)で、川から知床半島寄りがゴロタ浜、網走側が砂浜ということを表現しています。
昭和28年から、海岸付近の地域が峰浜、内陸の国道沿いが朱円と呼ばれるようになっています。

 

周堤墓とストーンサークルの違いは!?
考古学では、石で区画したものをストーンサークル(環状列石)、土の場合は周堤墓と分類するので、朱円のものは正しくは周堤墓ですが、朱円ストーンサークルと通称されています。
遺跡が海岸からやや離れていたり高台にあるのは縄文時代中期には気温が2度高く、海面が4m上昇し現在の内陸部まで海(斜里湖)が進入していたから。
北海道では、周堤墓が千歳市にキウス周堤墓群(14基)、芦別市に野花南周堤墓群、ストーンサークルが、ニセコ町の曽我北栄環状列石、深川市の音江環状列石、小樽市の忍路環状列石などで発見されています。

 

朱円ストーンサークル
名称 朱円ストーンサークル/しゅえんすとーんさーくる
所在地 北海道斜里郡斜里町朱円西区東1線
ドライブで 女満別空港から約56.4km
駐車場 2台(朱円墓地などを利用)
問い合わせ 知床斜里町観光協会 TEL:0152-22-2125
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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