【知られざる北海道】vol.9 『知床旅情』誕生秘話(その2)

森繁さんが元歌を作り、加藤登紀子さんが歌って知床ブームを生んだ『知床旅情』。その誕生にまつわる話のパート2です。前回は森繁さんの主演の映画『地の涯に生きるもの』誕生までの話。今回はその映画のクランクインの日に誕生した『知床旅情』の話です。この『知床旅情』のは元歌があったのです! それが『さらばラウスよ』です。

知床岬で実際に撮影したハマナスの花(撮影協力/NPO法人しれとこラ・ウシ)

知床岬で実際に撮影したハマナスの花(撮影協力/NPO法人しれとこラ・ウシ)

 

昭和35年、ロケ当時の知床はまさに地の涯!

話は少し脱線しますが、状況を正確に把握するためにも当時(森繁さんの主演の映画『地の涯に生きるもの』のロケ当時(昭和35年)の知床半島の交通状況を解説しましょう。

ウトロと羅臼を結び、知床連山を越える知床横断道路の着工は昭和38年(開通はずっと後の昭和55年)、知床観光汽船がウトロ~羅臼間に就航するのもこの映画の封切りで知床が注目されて以降の昭和37年のこと。知床岬に灯台ができるのは昭和38年、国立公園に指定されるのも昭和39年のこと。

つまり、森繁久彌主演、久松静児監督の映画『地の涯に生きるもの』のロケが行なわれた昭和35年3月〜7月は、まさに知床は秘境中の秘境、羅臼町やウトロに至る国道もクネクネのダート。しかもウトロと羅臼を結ぶ観光船すらありませんでした。
「冬場になると道路が普通になって船で町まで出たことがある」なんて昔話もよく耳にします。
映画でも森重久彌演じる彦市老人の妻・村田かつ(草笛光子)が病気になったとき、雪に閉ざされたウトロから斜里の市街までオシンコシシン崎の断崖をソリで下ろすという印象的なシーンがあります。
吹雪けば、船も出ないので、急病人は徒歩で運び出したという話。終戦直後にはまだそんな交通アクセスだったわけで、昭和30年代まではまさに秘境だったわけです。

朝日新聞記者の本多勝一が、難行苦行のあげくようやく無名湖(現在の羅臼湖)に到達したのは、昭和35年9月17日のこと。偶然にも映画『地の涯に生きるもの』ロケ直後のことです。

峠の東(羅臼)と西(ウトロ)では、気候も風土も大きく違う土地柄。結ばれる交通もありません。撮影も大変だったことでしょう。羅臼町(当時は羅臼村)では、200人もの村人がエキストラとして動員されています。

羅臼は今でも「魚の城下町」を自負する漁師町です。映画のロケ当時といえば漁師以外は公務員か一部の商店かという状況。しかもロケの前年の昭和34年4月には羅臼沖で、天候急変の突風のため15隻の漁船が次々と波間に沈み、89人が命を失う遭難事故が起こりました。

「六日午後二時頃、目梨郡羅臼村知円別沖合約四キロ付近で操業中のスケソ刺網漁船五十隻(船名、乗組員など不明)が西南西三十メートルの大しけにあい、救助を求めているとの連絡が釧路海上保安部にあった。
同本部から巡視艇とかちが現場に急行したが、同船からの連絡では七日午前二時までに四十一隻が無事羅臼港に帰り(うち十隻は座礁したが、自力で離礁)残りのうち龍盛丸(六トン)は知床半島天狗岩付近で岩礁にぶつかって沈没、四人の乗組員は行方不明になり、また八隻はなお消息を絶っている。
この八隻は国後島方面に流されているものとみられ、各船には四人程度の漁夫が乗組んでおり、その安否が気遣われている。」(昭和34年4月7日付『北海道新聞』朝刊)
「羅臼海岸の暗夜の中に被災者の留守家族は立ち去ろうとしない。あるものは夫か子が「オーイ。帰ったぞ」と手を振って帰港してくることを祈り、あるものは不吉の予感におののいている。
午後四時ごろ明正丸と松和丸が水船になって引航されてきたときの家族の表情は悲痛だった。
ポンプで船中の水が排水されると数十の目が集まった。松和丸のエンジンの上には二人がしっかりとロープで身体をしばりつけたまま死んでいる。泣き叫ぶ家族の声は、これをかき消すようにまだ荒れ狂っている根室海峡の怒涛にこだまして夕闇まで続いていた」(昭和34年4月8日付『北海道新聞』朝刊)

ロケの前年に起こったその悲惨な遭難事件も映画には織り込まれ、森繁さん演じる彦市老人は港で「国後丸(くなしりまる)の謙三はおらんけ。けんぞおー」と泣き叫ぶのです。
エキストラの中には本当の遭難者の遺族も多数いたのです。
「撮影が終わっても、泣き声がやまない。みんなが家族同然で、監督もカメラマンも、もらい泣きした」(ロケ当時の羅臼村財政係長・志賀謙治さん)。
森繁さんも撮影途中に「映画や芝居で涙は流すが、今回ばかりは心底泣かされた」と語ったそうです。
そうしてこのロケを通じて村人と、森繁さん、映画の出演者・スタッフは、心ひとつにまとまったのです。

森繁さんの感動が『さらばラウスよ』を生んだ

昭和35年7月にロケは羅臼で終了します。
森繁さんは町を出発する日の朝、『さらばラウスよ』という歌の歌詞を当時滞在していた栄屋旅館(現在のホテル栄屋)の前に張り出し、ギターを手にしてこう語ります。
「日本は人情の機微が紙より薄いと言われていますが、僕は羅臼の人情に触れました。お世話になった皆さんの後々のために歌を作りました。この歌を歌って別れましょう」

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当時を知る栄屋の関係者は、
「突然、起こされて、集合を掛けられて・・」と苦笑します。
森繁さんは、小節ごとに繰り返して教え、やがて歌声は村人、ロケ隊全員の大合唱となったのだとか。
その場に居合わせ、その時のことを今も克明に記憶するというマスコミ関係者・中村貞雄さん(東京在住のテレビマン・当時は札幌のテレビ局員)は、
「森繁さんは『お世話になった皆さん(羅臼の人々)の後々のために歌を作りました』とキッパリといいました。これは羅臼の人との約束なんです。それを考えるとウトロに歌碑があるのはいかがなものかと・・・」と顔をしかめます。

羅臼港に近い「しおかぜ公園」には『オホーツク老人の像』が立っていますが、森繁久弥演じる「彦市老人」をモチーフにした像ですから、まさに森繁さんです。その横には『知床旅情』の歌詞が森繁さん自身の筆で彫られています。
201507300201『オホーツク老人の像』の前に立つ、TBS『小沢昭一の小沢昭一的こころ』の坂本正勝プロデューサー。駆け出しの頃、坂本さんは森繁さんの番組を担当していたのだとか

ABOUTこの記事をかいた人

酒井正人

ラジオ・テレビレジャー記者会会員/旅ソムリエ。 旅の手帖編集部を経て、まっぷるマガジン地域版の立ち上げ、編集。昭文社ガイドブックのシリーズ企画立案、編集を行なう。その後、ソフトバンクでウエブと連動の旅行雑誌等を制作、出版。愛知万博公式ガイドブックを制作。以降、旅のウエブ、宿泊サイトにコンテンツ提供、カーナビ、ポータルサイトなどマルチメディアの編集に移行。