【知られざる北海道】vol.5 阿倍比羅夫伝説の残るニセコで、曽我北栄環状列石へ!

忍路環状列石はすでに『知られざる北海道』で紹介しましたが、今回はニセコで見つけた環状列石の紹介を。オーストラリア人の進出で、今や国際的なスキー場と認知されたニセコですが、アンヌプリスキー場(ポテト共和国)の山麓にストーンサークル(環状列石)があります。それが曽我北栄環状列石です。

曽我北栄環状列石の真東に羊蹄山が! これは偶然!?

ニセコで人気の宿、『オーベルジュ・ド・ふらいぱぁん』の取材時に、忍路環状列石の話をしたところ、オーナーの石川さんが「環状列石ならこの近くにもありますよ」と教えてくれたもの。
実際に探してみると、トウモロコシ畑の陰に隠れて、ちょっと探したが、羊蹄山の展望台のような場所に、曽我北栄環状列石はありました!

ニセコ町の史跡に指定された曽我北栄環状列石は、発掘調査で人の骨と思われる骨片、硬玉、深鉢型縄文後期式土器が発見されています。
研究者は、儀式に使った祭祀的なものというより、環状列石墓であると主張しています。つまり、3000年ほど前、縄文人が居住地と墓を分離したと。

しかし、実際に、曽我北栄環状列石の場所に立つと、想定外の事実に驚愕することになります。
ほぼ、真東に羊蹄山がどーんと鎮座しているのです。
曽我北栄環状列石のある場所は、北緯42度49分34.7秒、羊蹄山の山頂(火口の中心部)は北緯42度49分27.9秒。7秒の差がありますが、これを曽我北栄環状列石の真東である34.7秒にずらすと、山頂火口縁の北側となります。
つまり、真東が山頂といっても過言ではないズレとなります。これはやはり何か祭祀的な使用もしていたのではないか、あるいは天文学的な・・・と素人的には思える環境なんですね。

曽我北栄環状列石は、周囲が畑で、そこだけが高台になっていますが、ニセコ町最大の面積を誇った曽我農場の土地だったという関係から、周辺が土地改良で1mほど低くなったためとのことです。環状列石も開墾中の農夫が土の下に一群の列石があることに気づいたため、昭和26年、東京大学教授・駒井和愛氏が発掘調査が行なわれたもの。

web版『ニセコ町100年史』によれば、ニセコ町には、
「旧石器時代(主に石を素材とした道具を作り、日常的に使い日々の生活を営んでいた1万3千年以上も前の時代)と縄文時代(容器として土器を使用し、多彩な文化構造を持っていた1万2千年前から2千3百年前までの時代)の遺跡が残されています。旧石器時代は氷河期の最終段階であり、北海道周辺の海峡は陸の部分がつながった状態となっていたため、食料を求めて人が移動してきたと考えられます。縄文時代になると気候も現在の状態に近づき、これまでの遊動的な生活から定住生活へと生活様式が変化していきます。このころになると、人々は尻別川の丘陵部などで生活していたと思われ、土器や矢じりなど多くの遺跡が残されています」
とあります。

ところがです。その先を読むと「先史時代のことは、遺跡から明らかにされています。しかし、アイヌ民族の社会・文化が形成されたとされる中世(鎌倉、室町時代)から江戸時代の後期に至るまでの記録は発見されておらず、その実態は不明のままです」。
つまり、中世にアイヌの人々が住んだ痕跡がニセコ町内からは発見されていないのです!

ここで、念のため解説しますが、先住民族であるアイヌですが、実は、古代から北海道に定住したわけではありません。曽我北栄環状列石から出土した骨(縄文時代の骨)は、アイヌのものではありません。アイヌの人が道南に住むようになったのは中世(およそ鎌倉時代)と推測されています。

ニセコ町は、後志郡(しりべしぐん)にありますが、この名前は明治2年に開拓使が幕末の探検家・松浦武四郎の案を採用し、付けられたもの。松浦武四郎は羊蹄山を『日本書紀』に記された後方羊蹄(しりべし)と考えたのです。
ちなみにアイヌの人たちは尻別岳(1107m)をピンネ・シリ(男・山)、羊蹄山(1898m)をマッネ・シリ(女・山)とも呼んだといいますが、これは山の大きさからではなく、その形状からついた名称でしょう。
 

『日本書紀』に記された阿倍比羅夫の蝦夷侵出

少し、環状列石からは脱線しますが、後方羊蹄(しりべし)についての説明を。
『日本書紀』によれば、658(斉明4)年、阿倍比羅夫(あべのひらふ)は水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、降伏した蝦夷の恩荷を渟代(現在の秋田県能代市と推測されます)、津軽二郡の郡領に定め、有馬浜(諸説あるが十三湊と推測されています)で渡島の蝦夷を饗応したとあります。さらに2人の蝦夷の意見に従って「後方羊蹄」を行政庁とし、郡の役人を置いたと。
倶知安町に比羅夫という字名(あざめい)がありますが、実はこの地名、阿倍比羅夫の蝦夷遠征伝説に基づく地名でもあり、喜茂別町には比羅夫神社(大正2年創建)も建っています。

『大日本名将鑑 阿部比羅夫』(月岡芳年画)

『大日本名将鑑 阿部比羅夫』(月岡芳年画)

 

7世紀、阿倍比羅夫が設置したと伝わる「政庁」はどこ!?

喜茂別町では、尻別川左岸の段丘上で多数の遺跡が発掘調査されていますが、実はこれ、飛鳥時代に阿倍比羅夫が設置したと伝わる「政庁」の跡を発掘しようという涙ぐましい努力の副産物。
同じパワーを全道で発揮すれば、まだまだたくさんの遺跡が発掘されることでしょう。余市町や倶知安町などでも7世紀の鉄刀や和人の渡来や交流を偲ばせる出土品が見つかっており、それぞれが「阿倍比羅夫が設置した政庁は我が町にあった」と主張しています。
飛鳥時代に北海道まで軍を出すはずがない、そう考える人もいるでしょうが、阿倍比羅夫は662年(天智2年)に中大兄皇子(後の天智天皇)の命により、征新羅将軍として百済救援のために朝鮮半島に渡っています。これが有名な白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)。こちらはもちろん史実。ではでは、北海道の政庁設置もまんざら伝説と切り捨てるわけにもいかない内容なのです。

縄文時代には人が定住したニセコに、それ以降、人の営みの痕跡がないのはなぜ? 阿倍比羅夫はどこに政庁を置いたの?
ニセコ周辺の旅は、トレッキングや川下りなどアウトドアに注目が集まっていますが、実は教科書にも載っていない、歴史ロマンが隠されています。そして、それは、まだまだ未解明の点が多く、日本の縄文時代、旧石器時代の歴史を塗り替えるような事実が明日にも発見されるかもしれないのです。
北海道の縄文文化はこれからさらに話題をよぶことでしょう。
 

曽我北栄環状列石 DATA

名称 曽我北栄環状列石/そがほくえいかんじょうれっせき
所在地 北海道虻田郡ニセコ町曽我252-5
営業時間 見学自由
電車・バスで JRニセコ駅からニセコバスで北栄下車、徒歩8分
ニセコ町内予約制乗合バス(にこっとBUS/TEL:0136-43-2200)が利用可能
駐車場 1台/無料
問い合わせ ニセコ町教育委員会町民学習課TEL:0136-44-2034

ABOUTこの記事をかいた人

酒井正人

ラジオ・テレビレジャー記者会会員/旅ソムリエ。 旅の手帖編集部を経て、まっぷるマガジン地域版の立ち上げ、編集。昭文社ガイドブックのシリーズ企画立案、編集を行なう。その後、ソフトバンクでウエブと連動の旅行雑誌等を制作、出版。愛知万博公式ガイドブックを制作。以降、旅のウエブ、宿泊サイトにコンテンツ提供、カーナビ、ポータルサイトなどマルチメディアの編集に移行。